リンパの流れ 4

呼びだしがあれば、どんな時刻であろうと往診にでかけました。


戦争が終わって、医師たちが帰ってくると、わたしはシンシナティにオステオパシーの治療室をもちました。


はじめの3か月は患者がひとりもこなかったのです。


ただじっと待っているだけで、本ばかり読んでいました。


・・・あるとき、通りをへだてたところにある理髪店に近所の司祭が散髪に行き、店主にわたしのことをたずねた。


店主は知らないと答えました。


そこで司祭はわたしの治療室をおとずれ、自己紹介をしました。


わたしたちはすぐに意気投合して、川をわたったケンタッキー州のナイトクラブで夜をすごすようになりました。


その司祭がわたしの福の神でした。


・・・というのも、司祭の紹介のおかげで、それ以来、無為の時間をすごすごとはなくなったからです。

リンパの流れ 3

歳をとってからは、ほとんど子どもしか診なくなっています。


おとなより子どものほうが好きだからというわけではありません。


もちろん、子どもたちのいのちの輝きはすばらしいですが、それよりも、連日おとなを相手に治療をするほどのスタミナがなくなってきたからです。


おとなは子どもにくらべてエネルギーの発散量が少ないのです。


全力投球しても反応がいまひとつ鈍く、こちらが消耗してしまうのです。


いのちが輝いている子どもたちは、わたしのエネルギーを吸いとってしまうようなことはありません。


開業当初は手技をほどこす治療はあまりできなかったのです。


第ニ次世界大戦でアロパシー医の多くが海外に出征し、病院に医師が少なかったので、わたしを必要としている人たちを助けるためならばと・・・


1日18時間から20時間、ありとあらゆる治療をおこないました。

リンパの流れ 2

いまではわたしがそんな芸当のもちぬしであることが知れわたったらしく、先日もアリゾナ州トゥーソンの大学病院で講演中におもしろいことがありました。


客席にいたひとりの医師がとなりの女性の髪の毛を一本ひきぬき(髪をひっぱられた女性の上半身がかたむくのをわたしは目撃した)、演壇のところまでやってきました。


・・・そして、髪の毛のうえに18枚の紙を重ね、わたしにみんなの前でやってみせてほしいといきました。


もちろん、わたしは正確にいいあてることができたのですが、それにしてもその医師がなぜ自分の髪の毛をぬかなかったのかはいまだにわかりません。


わたしは手指の感覚を磨く訓練を怠ったことは一度もありません。


おかげで現在でも、患者の何十年か昔の骨折をいいあてるだけの感覚はおとろえていません。


四肢に手をあてながら移動させていると、ほんのわずかなざらつき、筋肉のひきつり、骨折が治癒したあとのカルシウムの沈着などが手に感じられてくるのです。


カンザスシティのオステオパシー大学を卒業すると、わたしはアメリカのある州で開業しました。


それからこんにちまで、生後3日から85歳にいたる、いろいろな年齢の患者を数多く診てきました。

リンパの流れ

ある日、級友がわたしの左肩に手技を試み、わたしはたちまちひどいインフルエンザになりました。


誤って左肺のリンパ領域をブロックしてしまったのが原因だということが、あとでわかったのです。


大学ではこんな訓練もしました。


紙のうえに人間の髪の毛を一本置き、そこに別の紙を重ねます。


紙に目印をつけることは許されません。


そして、うえの紙にそっと指一本でふれ、髪の毛がどこにあるかを感じとります。


正しくいいあてられれば、つぎの指でふれます。


両手の指すべてで正解をだすと、教授はもう一枚の紙を重ねます。


・・・それでも正解がでると、また一枚と、それ以上だれもいいあてられなくなるまで何枚も紙を重ねていくのです。


広がるマスメディアの世界 4

1956年には各映画会社は進んでテレビ用映画を制作し、また1948年までの2000本近い旧作映画の上映権を売りました。


営業用カラーテレビが放送を開始したのは1953年12月からでしたが、その普及はRCAなど主力メ;カーの期待に反して、きわめてゆっくりしたテンポで拡がりました。


ようやくカラー用TVセットの普及が100万台に達したのは1962年で、3大ネットワークが全面的なカラー放送に踏み切ったのは、カラー用テレビの保有台数が500万台になった1965年です。


こうして1967年には、全家庭の95%がカラーであれ、白黒であれ、少なくとも1台のセットを所有し、25%が2台またはそれ以上を所有していました。


1~2月のシーズンになると、テレビの視聴時間は1週44時間にもなり、番組あたりの潜在的視聴者数は8300万から8500万人と推定されるようになりました。


・・・このようにテレビが普及してくると、もはや視聴者は単なる個人の集まりではなく、「市場」を形成します。

広がるマスメディアの世界 3

テレビ放送が普及し、連続ドラマが番組の中心となってくると、映画界の助けが必要となりました。


ハリウッドは初期にはテレビに対してきわめて警戒的態度をとり、むしろこれを敵視し、スターやスタッフなどの人材や古い映画の提供を拒否しました。


誇り高い映画人は、成り上がり者のテレビをばかにしていたのです。


たとえば1954年にABCの番組編成担当者がハリウッドに赴いて、古い映画のテレビ放送権を買いに交渉にいったとき、映画界のボスだったコロンビア社のハリー・コーンは、


「お前たちのような下司野郎にはおれのスターも、どんな人間も貸さねえよ。


お前たちに映画がつくれるかって!」


・・・と悪態をついたのです。


とはいっても、映画は戦後、テレビの影響で斜陽化しはじめていたことも事実です。


コーンのような悪態も、所詮カラ威張りにすぎませんでした。


これに対しワーナー社のジャック・ワーナーは、350万ドルで旧作映画の上映権をABCに与えました。

広がるマスメディアの世界 2

試練のなかから、ポール・ニューマンやスティーブ・マックイーン、リー・マービンといった一癖も2癖もある性格俳優が生まれ、銀幕でも活躍するようになったのです。


このようなテレビドラマにいわゆる連続ドラマが登場してくると、いよいよその制作は困難の度を加えることになりました。


1シーズン2ないし12の連続ドラマを制作すると、どうしても450本ぐらいの台本が必要となってきます。


これに対し、1955年にハリウッドで制作された映画は、250本にすぎませんでした。


これらの映画は広くて完備された撮影所で、熟練したスタッフと有名なスターによって制作されました。


しかし、1951年に前述の人気番組『アイ・ラブ・ルーシー』が登場してくると、新機軸が生まれました。


劇場での生放送を3本のフィルムに撮り、これを編集して1本のテレビ映画にするという方式で、他の連続ドラマにもこれが使われるようになりました。


ちなみにビデオテープが開発されたのは、1950年代のなかばすぎでした。

広がるマスメディアの世界

テレビ評論家のロバート・C・トールは


「このような圧力鍋のなかでの作業は人びとに最もよく天分を発揮させ、彼らに忘れられない、やり遂げたという気持ちと友情とを与えた」


・・・とし、そのような結果


「初期のテレビの熱っぽい制作のペースにあわせて、ちょうど映画初期のように、若い俳優、ディレクター、作家たちは仕事の腕をみがき、その成果を早く評価できる機会を持った」


・・・と述べています。


制作上の制約も、いまでは考えられないほど大きかったのです。


テレビドラマはすべてライブでしたから、せまいスタジオのセットのなかには固定焦点のロング用、クローズアップ用の2台のカメラがあるだけで、場面転換もありませんでした。


ストーリーもアクションではなく、性格描写に中心がおかれたので、俳優の演技力に依存せざるを得ませんでした。


だから「俳優は舞台演技者のセリフまわしと、映画演技者のクローズアップの技術と、ラジオ演技者の情感を兼ね備えねばならなかった」(トール)。

若者と農業 4

生産に向ける時間が多くなったわけです。


しかしその反面、食べる人と直接顔を合わせる機会も滅ってしまい、お互いの距離が遠くなったように思えます。


確かにそれを克服していこうという工夫はしているのだろうし、年に何回かの集まりがあり、積極的な人たちの参加があり、意見を聞くこともできるのですが、何かもの足りないのです。


そこに集まってこない人たちはどんな思いで食べているのか、何を思って野菜の共同購入に参加しているのか、なんて考えるとイラだってしまい、不安に思います。


見えない関係というのはとても不安なのです。


小さい関係の中では案外意見が出し合えて、わかり合えているとか信頼し合えているとか感じることができるのに、ちょっと範囲の広がった関係になるとどうして見えなくなってしまうのでしょう。


どうせ言ってもしょうがないと思ってしまうのでしょうか。


私にもよくあることなんですが。


また、こういうことって他のことでもよくあるんじゃないかなって思います。

若者と農業 3

その当時は、それでかなり満足していて、何か地域の中で新しい、いい関係ができるんじゃないかなんて思っていたんですが、今思うと、面倒くさいとか何とかいろいろな思いでクレームを出さずにガマンしてしまったり、やめてしまった人も多いんじゃないかと思われます。


その問題は、農産物流通組合になった今でも続いていると思いますし、クレームを出してくれる人は大切にしたいものだと思っています。


そんな取り組みが何年か続いた後で、一年半ほど前から生協も野菜の共同購入に本格的に乗り出してきて、川崎ブロック全体で取り組むことになったのです。


私たち生産者も生協との価格交渉をはじめとしていろいろな話し合いの便を考え、また生協との力関係上、生産者の横のつながりを強くしようということもあり、句ケ丘農産物流通組合を結成しました。


野菜の共同購入をやってみて、少し見えてきたこともありますので、そのへんのことも述べておきたいと思います。


自主取り組みのころは自分たちで配達していたので、それに時問を取られてしまい、仕事をする時間が制約されていたのですが・・・


共同購入方式になってからは、生協の職員か配達してくれるので時間的余裕がもてるようになりました。


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